2008年 04月 28日
語るも涙 |
( Rolleicord Vb, Xenar 75mm F3.5, Velvia 100 )
先日、友人の家に不幸があり、葬儀に出席してきた。アメリカで葬儀に出るのははじめてであった。
まずは、日本で言うところの御通夜に相当するものが、葬儀の前日にある。故人が所属していた教会の祭壇の前に、棺を置く。棺の中にはもちろん死化粧をした故人が安らかな顔で横たわっている。親類縁者、友人などとの最後の面会をする儀式である。この時は、牧師や遺族のスピーチは一切無い。参列者や遺族と挨拶や世間話をして終わる。
翌日は葬儀である。同じ教会で牧師が聖書の言葉や故人の生前のエピソードを交えて、スピーチを行う。日本と大変異なるのは、スピーチの最中に牧師が冗談を言って皆を笑わせたりするのだ。これを日本に当てはめて言うなら、檀家となっている寺の坊主が葬式で般若心経を読み上げている最中に突然江戸小咄を始めだすようなものだ。あっけにとられている内に、ジョークはどんどんとテンションを上げてゆく。教会の祭壇は、寄席の高座と化してゆく。御後がよろしいようで。
教会での儀式が終わると、墓地へ向かうことになる。車社会かつ個人主義のアメリカでは、日本のようにバスを出したりしない。出席者が皆、乗ってきた自家用車で墓地へと向かうことになる。この時は総勢40台くらいになった。先頭はパトカー、その次が霊柩車と続く。移動の最中は赤信号で葬列の車が分断されることの無いように、パトカーが交差点を次々とブロックしてゆく。こうして信号が何色であろうとも葬列の40台は止まることなく静々と進んでゆく。このパトカーの技術は、すごい。
葬列の車が来ると対向車線の車も含めてすべての車が止まる。その中を葬列の車だけが動いてゆく。これが何とも気分が良い。オハイオ州に住んでいたころには、そういうことはなかったので、アラバマに移ってきたときにはこれはアラバマ州の道交法で決められていることなのだと思っていた。しかし、実はこれは法律ではなくアラバマ独特の習慣。死者に敬意を表す意味があるようだ。
墓地までは一時間弱の運転だった。もう一度牧師がスピーチをし、埋葬となる。
重度の花粉症もちである私は、墓地での埋葬が非常に辛かった。晴天な上にさわやかな薫風があり、誠に結構な花粉日和である。目が痒く、涙が止まらない。鼻水がたれるので、時々鼻をすすり上げる。私が泣いていると思ったのだろう。隣にいた知らないおばさんが、そっと私の肩を抱いてくれた。
by goodsurgeon24hrs
| 2008-04-28 11:33
| 日常
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Comments(2)
アメリカの葬儀は、映画そのものですね。
もともとアメリカの映画なんで当たり前ですが。
日本でもかなり高齢でなくなられた方の場合は結構生前の笑えるエピソードなんかを皆で話したりしますよね。
もともとアメリカの映画なんで当たり前ですが。
日本でもかなり高齢でなくなられた方の場合は結構生前の笑えるエピソードなんかを皆で話したりしますよね。
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by
surgeon24hrs
at 2008-05-01 03:14
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