方針変更 |
完璧な人間など1人もいない。
そのような悲しい現実の中、私は輪をかけて完璧から程遠いところに存在していることをはっきりと自覚している。
明哲なる諸兄諸姉とは異なり、私は連日のごとく同じ過ちを繰り返すのはもちろんのこと、それに加えて独創的で新たな過ちを大量生産し続けている。このことに拍車がかかることはあっても、衰えることはない。
しかし私の犯す過ちには、大きな特徴が備わっている。それは「私は常に良い方向に間違える」と言うことである。
自分で言うのはいささかおこがましいが、この「常に良い方向に間違える」、余人にはなかなか難しい事ではないかと自負してる。これも私の長年の修練の成果であると思っている。
私が次から次へと休みなく大量生産する過ちのせいで、私は常に誰かからの批判を受けている。これは被害妄想ではない。真実だ。
非常に残念な事に私を非難する人々は、「私は常に良い方向に間違える」と言う事実に全く気がつく気配がない。従って彼らは愚かなことに、私への非難の手を緩める術を知らない。
とにかく「常に良い方向に間違える」のであるから、私には間違いを犯しても特段の差し障りは無い。しかしこのことを理解しない批判者たちは私に反省の色がないとさらなる非難を浴びせかける。彼らは木を見て森を見ていないのである。
このような状況はどうもよろしくない。
と言うわけで本日12月1日をもって私は、間違える時にはきちんと誰の目にも明らかなように「常に悪い方向に誤る」と心を新たにしたのであった。
<読了>
「フェルマーの最終定理」 サイモン・シン
「世界でいちばん長い写真」 誉田哲也
わたしの場合、"ああ、やっちゃった..."の方が多いので"常に良い方向に..."、これは羨ましい限りです。
ですがここからがわたし流。
"進化の過程だな"と思うようにしていることが自身の救いになっております。
自分に都合よく、です...^_^;
良い方向に間違える.....本来はこれは周囲の人に賛辞を受けることが多いように感じますが、しかし自分で間違えたと自覚したことが良い方向に間違え賛辞を受けること自体が、完璧主義なgoodsurgeon24hrsさんには許せないのですね。
久しぶりにコメントさせて頂きます。
「良い方向に間違える」というのは、『結果オーライ』と同義でしょうか。
間違いがかえって良い結果へ近づくことになったのなら、私も木を見ず森を見るべきではと思います。
でも、今は木どころか枝や一枚の葉まで見ている人が増えてきたような気がします。
彼らに共通するのは『少しでもリスクを避けたいし、感じたくもないんだ』『一分一秒でも早く安心させてくれ!』という焦りにも似た感情です。
彼らはいい意味で心配性で、私は彼らから見るとかなりの“のんびり屋”なんだと思いますが、世知辛い世の中になってしまったなぁ…というのが正直な気持ちです。
もうちょっと大らかな心(笑)を持って頂ければ、世の中うまく回ることもあるのではないかと、今回のお話を伺って思いました。
長文及び乱文・乱筆、失礼致しました。
私はもう、「自分に都合良く」の権化のようなものですので、いくら間違えても「正しく間違えている」と無理やり主張しています。
まあ、これを続けているとそのうち誰にも相手にされなくなる事間違いなしですので、この辺で改める事に致します。
:D
いえいえ、とんでもない。そんなに褒められた話では無いのですよ。
要するに私は失敗しても往生際が悪く、いつまでも自己保身に走っているので、こう言う言い分になると言う話です。
えへへ。
今回の話はいわば、私の開き直りですね。あはは。失敗しても、とっても往生際が悪いのです。ああ言えばこう言う、と言う感じの屁理屈が次から次へと浮かんできます。困ったものです。
枝葉末節を見るばかりに森を見失うことって確かに結構ありますね。私自身がそう言う事に陥っていることもしばしばです。
おおらかな心、確かに大切だと思います。
ところで、Roy Scheiderって、All that jazzのギデオンさんですよね!